「愛」とは何でしょう。
これもまた定義されていない言葉です。
(定義されている言葉というものは、ほぼないのかもしれませんね)
私の答えは「愛とは、相手を受け入れる態度」です。
これが実現されたときに、人は愛を感じます。
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具体的な例としては「きちんと話を聞いてくれた時」です。
そんな簡単なこと…と思うかもしれませんが。
いやいや、どうして奥が深い話です。
以前、カウンセラーの話の聞き方についての本『プロカウンセラーの聞く技術』を読んだことがあります。
これによるとカウンセラーの仕事は、話を聞くことなんだそうです。
それも、想像以上に聞きます。
何かを無理矢理聞き出そうとはしません。
相手が話したくなるまで待つそうです。
相手が話してくれたことに対して、それを受け入れます。
「あなたはそう感じた」「あなたはそう思った」ということを理解した態度をとります。
否定したり、同意したり、共感したりしないそうです。
ただ、受け入れる。
本当に聞くだけなのです。
これを場合によっては何年も続けるそうです。
そうしているうちに、徐々に信頼してくれ、自分の気持ちを話してくれるようになるそうです。
カウンセリングが必要になる人だから、こんなにも時間がかかるのでしょうか。
カウンセリングが必要のない人だって、自分の気持ちをそうそう話さないのではないでしょうか。
それは本当の意味での話を聞いてくれる人がいなかったからだと思います。
聞くそばから否定したり、共感をして自分の話をしたり、そもそもズレた共感をされたり、いきなり対策の話になったり。
そんなことが続けば、話をするだけ無駄だなって思われてしまいます。
言い換えれば、それくらい信頼してからでないと、自分の本当の気持ちは話したくならないのが人間だということだと思います。
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相手の存在を受け入れ、考えたことを受け入れ、相手の現状を受け入れる。
それが愛なのだと思います。
愛を受けると、人は自信を持ち、元気を得ることができます。
愛を受けることができないと、人は自信を無くし、元気が出なくなります。
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「愛とは、相手を受け入れる態度」であるとするならば、言葉は必要ではありません。
つまり、対象は人だけではないのかもしれません。
音楽や絵画、映画、アニメ、映画、料理、植物、インテリア、街路樹や石ころに至るまで。
むしろ、人間でないほうが愛を感じやすいのかもしれません。
また、相手の存在を受け入れれば(愛を与えている状態になれば)、相手の輪郭、色や形、表情などもハッキリして見えます。
当然です。
自分の意図を無くして、相手を受け入れて、見ているのですから。
お気づきかもしれませんが。
実は、以下の内容は「愛」や「愛を受けた状態」に似ているように感じます。
そして、もう一つ似たものがあります。
それが「権威」です。